やまゆり園の報道について

規制のメディアが競うようにニュースやワイドショーが一定の時間枠を作って
許せないこととして流していたけど、本当に許せないと思っていたのかな。
そもそも、障害者がいかなる理由があろうとなんであんな大きな施設に入って生活するのか、そこに疑問を感じていない。
あーいうところにいるのが当然のごとくで、そこを植松ていう人が襲撃して最悪の事態を起こしたわけでしょ。
その植松被告を非難するのは構わないけど、非難する前提としてみんなが当たり前として生きている地域社会から追いやってることに気づき
自分自身を問い直さないと言葉の遊びによって差別だどうのこうのいったって意味を感じない。
なぜ自分のとなりに障害者がいないのか。
なぜ自分の職場に障害者がいないのか。
なぜ自分のかよった学校やあそんだ公園に障害者がいないのか。
などなど語り合わないといけないのじゃないのかな。
そこらへんがないところで何らかしら家族愛を美化しているような感じがしてどうもしょうがないキモイ。
実感として簡単に差別という言葉を使ってほしくない。
確かに植松は確信犯で障害者への差別思想の持ち主だ。
でもまた、植松のような差別思想を生み出しているのもこの社会だ。
この社会を根本から問わなければ本物の批判にならない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。