三里塚里山と僕 PartⅡ

1974年 僕が卒業した次の年 秋から冬にかけて

参議院選挙があったんだ。

その選挙で三里塚空港反対同盟の委員長戸村一作さんが立候補したんだ。

野坂昭如さんが田中角栄の選挙区から立候補したんだ。

僕はまだ19歳で選挙権もなにもなくただの風来CPで戸村さんの選挙を少し関わった記憶がある。

小さな選挙カーで北海道から九州まで回っていたんだからすごいよね。

選挙自体は23万票くらいしかとれなかったんだけどこのひと月近い選挙活動によって全国各地にある

反基地運動、反公害運動、反原発運動とか反開発運動などの住民運動がそれまで点と点だったのが

結びついていくようになったんだ。

バラバラだった運動が三里塚空港の反対していくことを前面に出して合流していくんだよね。

その当時はまだまだ障害者運動は黎明期の途上だったから個々人レベルの

関わり合いだったけど1976年の8月の全国青い芝の会が中心となって結成された

全国障害者解放運動連絡会議の結成がされた大阪市立大学大講堂1500人以上の

障害者や支援者が集まった。熱気むんむんムラムラだった。

何かが起こせると僕は感じていた。その結成大会に反対同盟から祝電と

10月10日に行われる三里塚現地で行われる全国集会への招待状が届き、会場で

読み上げられたんだ。

それもあって全障連の全国デビューは10月10日の三里塚集会で200名ぐらいの障害者がど真ん中を占めていた

演壇に事務局長のKが5分程のスピーチをした。

それが組織としてのデビューだったんだ。

1977年には川崎駅前での青い芝の人達のバス闘争でしょ。

1978年3月26日には空港の開港阻止した空港反対派による管制塔の占拠

結局開港は5月20日に延びた。

79年の1月の養護学校に反対する文部省闘争

身体をはった実力闘争の時代だったんだよ。

細かいことは話すと問題が起きるからもうやめておくわ

知りたい人は自分で検索してみて!