1867年⇒1871年(琉球処分)以降、1945年8月15日経て、9月2日経て
サンフランシスコ講和条約(第二次琉球処分)に至り、日米安保条約を結び
現在に至るまでこの国の基調はまったく変わっていない。
2月24日の国立劇場で開かれているイベントで○○陛下万歳三唱に表れている。
この日は沖縄宮古八重山地域(旧琉球王国)辺野古への基地の移設に
反対賛成どちらでもないの県民投票が行われた日だ。
○○陛下夫妻は弱者の味方で国民統合の象徴である自分の役割として
統合の外側に存在している人たち、統合の下部にいる人たちに想いをはせ
お見舞いの役割を演じてきた。それが象徴の役割だということをなんか言っていたようです。
気持ちが悪い。
1975年の沖縄の開かれた海洋博のおり名護の向こうにある国立ハンセン療養所沖縄愛楽園を訪問し
らい者を見舞った。直接手を触れ身体を触れ、好意の意思を表した。
そこまでされればらい者の人達は感動するだろうよ。
血縁者も来ないし、幼いころの友達も来るわけでもない。
絶対隔離のもとで生きてきた人たちにとってすごいことだったんでしょ。
園内でしか使えない通貨、園内で実名を使わず仮名で過ごしてきた現実、それと同時にらい者同士の結婚をする場合、パイプカット、それでも妊娠した場合は強制堕胎。それが少なくとも1996年まで続いていた。このらい者への
過酷な処遇を推進してきたのはミツダケンスケ この人はヒロヒトから文化勲章をもらっています。
この歴史をこの国の人々は知ってほしいし、沖縄の中にもこれが続いていたことを知ってほしい。