僕の手元にいくつかの資料的なものがあります。
水上勉 拝啓池田総理大臣殿 中央公論1963年6月号
これは作家水上勉が自分の娘(障害児)の愛情を根拠にして
池田内閣に親なきあとも安心して預けられる施設を作っておいてほしいと
障害児教育(分離教育)の充実を訴えている。
これは当時のマスメディアも大きく取り上げて、いまでいうワイドショ-で
拝啓総理大臣様という1コーナーを設けて、貧困やシングルマザーの問題を
毎週毎週取り上げていった。
こういった水上勉などに代表される障害者を持つ親の切実な思いに対して
障碍児・者施設を作ろうとか、当時の有名な芸能人とかが作ったあゆみの箱運動とかが拡がっていく下地を形成していった。
時同じくして、1963年に重度身障施設の創設、1966年の身体障碍者福祉審議会『身体障碍者福祉法の改正その他身体障碍者福祉行政推進の為の総合的方策(答申)』、1967年の身障法改正:障害の拡大(心・呼)内部障害者施設の通所制度、施設の入所年齢引き下げ 相談員制度につながっていく。
これらによって、群馬県にある国立高崎コロニーや東京都府中市にある府中療育センター、愛知県にある金剛コロニー長崎県にある雲仙コロニーなどの大型施設が全国的に作られていく。
高崎コロニー(恵みの園)政府厚生省が障害者の理想郷をつくるとうたっていた。
北は北海道、南は鹿児島まで、一番多い時で700人ちょいが入所していった全国から選ばれた重度障碍者(重複)現在においても200人近く入所している。
1963年はあの津久井やまゆり園が開所した年でもある。
当時は県立だった。
その翌年、大分県の別府に太陽の家がオープンする。
障害者の自立の問題が。身辺自立と職業自立の方向づけされてしまう。
太陽の家はそのころの新興企業の本田とかソニーとかテルモなどの支援を受け
巨大になり、この国の就労施設のモデルになる。
水上勉さんが訴えていた障害児教育(分離教育)の充実は叶った。
僕は1955年生まれだけど、3歳ごろから富山県立高志学園に小学校3年まで入所している。幼・児童期をそこで過ごしている。
富山国体(1958年)があった頃、なぜかしら、当時の皇太子夫妻(アキヒト・ミチコ)が来ていた。
僕の記憶にないが幼児室で机に向かって絵を描いているところにミチコが僕の絵をのぞき込んでいる写真があって
亡くなった親父が後生大事にして見せびらかしていた記憶がある。
毎年、国体や植樹祭がある。そのたびに障害者福祉施設などを天皇夫婦が訪問している。
昨年の障害者の日には滝野川学園を訪問している。
1970年当時僕は光明養護学校の高等部でやっと目覚めが始まったころ。
こんなことがあったとはつゆ知らず。
華僑青年闘争委員会(華青闘)、彼らが当時の日本共産党を含めた左翼への決別宣言を発した。
その中で華青闘は天皇がポツダム宣言を受け入れることによって日本人民がそれを避けられなかったところに日本人民の排外主義への
抵抗思想が築かれなかった原因があるとしている。
天皇によってこのつらい戦争を終わらしてくれたという天皇賛美の意識が日本人の中に強く根付いてしまっている。
このことは事実として認めざる負えない。
僕はここ数年8月15日はうそだろう敗戦記念日として。
刻印される日は1945年9月2日の降伏文章に日本政府を代表して重光全権代表が署名した日が正式にそれに当たると思う。
嘘をついて歴史を改ざんするのはもうやめよう。そこからしか始まらない。
月刊『わらじ』2019年8月号に掲載したものに加筆しました。