本当にあった怖い話。

沖縄のボクが大切にしているグラス
ブルーと薄いグリーンのキャップがある。
その原材料はなんだと思う?
戦後、米軍がもちこんだコカ・コーラとペプシコーラだよ。沖縄の人々の心情は複雑で優しくて美しい。あれほど、凄まじい戦闘の被害を受けて、その逆手をとって利益を得る。
今回、名護市の市長で再選された
前回の市長選より投票率が10ポイントほど下がっている。現行の法制度に基づいて、何度も何度もNOをつきつけても、日本政府は米政府に対して日米地位協定の改定を迫らない。また出入国管理の審査は米軍と家族はフリーパス。
だから米国から新型コロナという流行り病がフリーで持ち込まれる。
沖縄と岩国と横田、三沢がその典型だ。

それが全国に拡大してしまった。

日本最西端の与那国島。
ここはもともと字が示す通り独立した国だったらしいよ。
30年ほどまえに行ってきたんだけど
のどかな島なんだけど、ドラマのドクターコトーで有名になってしまった。
地元でとれたカジキマグロをつまみながら泡盛をちびちびやるのは良いものだよ。
最南端の波照間島で急にお腹が痛くなって駆け込んだお医者さんが当時は在日コリアの先生だったんだよ。
なんか白浜がめちゃくちゃ綺麗でエメラルドグリーンの真っ青な海が美しかった。
今の季節は南十字星が綺麗に見れるころだろう。
また行ってみたいけど。
たぶん無理だな。

ボクが住んでいる世田谷区では障害児を校区の学校に入学させているケースが多い。
そこでわざわざ世田谷区に越してくるケースも増えている。ボクがまだまだ光明養護学校に在籍している頃は周辺に引っ越してくるケースが多かった。1979年1月26日養護学校義務化に反対して抗議行動をやっていた。そのど真ん中にいた。
亡くなったNくんと一緒に現場をもりあげていた。
あれから43年。四国の松山からストレッチャーで来ていたAくん。20年ほど前に亡くなってしまった。Aくんをはじめ参加していた脳性麻痺者をはじめとする障害者ひとりひとりに文部省に向かって話してもらった。ある女性は私がスキで障害者になった訳ではないと言った。それを聞いたボクはチカラがぬけてこれは負けたと思った。本音といえば本音なんなんだろうけど、それを言ったらおしまいだよ。
あれから43年。なにが変わったのだろうか。
このコロナ禍のなかでアナログ的な関係でもって生活を保っているボクは考えてしまう。
アフガニスタンで殺された中村てつや医師は九州大学でさよならCPを観て、当時の青い芝の人達から批判をうけたそうだ。
つまりリハビリテーションの中身を巡って批判を受けたのだろう。そのことは横塚さんと横田さんの書いたものを読めばなんとなくわかると思う。
てつさんの運動を支持しているミュージシャンの加藤登紀子さんがてつさんの生前、クリスマスイブのメッセージを携帯電話で送ったそうだ。
おめでとうと。
まわりにどういう人たちがいるか想像もせず
てつさんは涙を流してありがとうと言ったそうです。
アフガニスタンの人達からすればテツさんはいくら良い人であって働く場を用意してくれる人であっても、異教徒なんだよ。
タリバンだろうとなかろうと異教徒なんだよ。。。。。

おしまい。

しばらく休みます。