遠藤滋さんが今日の午後亡くなりました。
享年75歳 遠藤さんとは梅ヶ丘にある
さつきという焼き鳥屋さんで会ったのが
彼との出会いの始まりでした。
当時、18歳。
社会事業大学(原宿にあった)の学生のTさんの紹介で会いました。
だから先に亡くなられた八木下さんや若林さんや荒木さんとの出会いの最中です。
光明養護学校の名簿があるので卒業生をターゲットにして、まずは在宅訪問活動から始めてみようかというのが彼と共にした様々な運動の始まりでした。彼は東京都の教育委員会のはからいで、中学部高等部の国語の教師として採用されたにもかかわらず、図書館を整理する仕事に配置されました。ということは定員上は教員ではないわけです。
そういった自分の身分問題をかかえながら、この世田谷福祉への様々な取り組みに主体的に取り組んでいきました。そう言った意味では無理をしながら生きてきました。小学部中学部を光明養護学校で過ごし、高校は日本学園高校、大学は立教大学。立教大学では所謂、全教徒運動の中心にいました。あの1968年から69年の新宿駅通過する米軍の燃料タンクをとめる戦いに合流していきました。彼にとっては1967年の羽田空港弁天橋を機動隊に殴打され殺された山崎さんのことが相当ショックだったらしい。荒木さんの裁判闘争を合流して証人にたつ予定にしたが、証人にたてませんでした。東京都庁が有楽町にあったときに府中療育医療センターの戦いに合流していきました。
そこで彼はかたわものの会
彼は足の親指と人差し指にペンを書きます。
身体はくの字に曲げて字を書きます。
想像を絶するほど腰に負担がかかります。
そして、ボクと同じように頚椎を痛めて腰痛を悪化させてしまいました。そしてある時期に前のめりに転んで、歩けなくなり寝たきり状態になりました。それは現在のボクの状態とそっくりです。
彼はとても自分の体調にものすごく気をつけて生きてきました。もっと詳しく知りたければ苦海をいかでかわたるべきや立教大学時代に出会ったドキュメンタリー映画えんとこを観てください。ボクは正直さみしいし悔しいです。世田谷でボクが知っている彼が唯一結婚して子をつくり、孫までいます。
先に亡くなった。宍戸直人さんやみんなとワイワイ騒いであっちの世界では笑いながら生きてほしい。ただそれだけだ。